tel 092-271-3767
MAP 中国書店ホーム 小社出版物のご案内 書籍検索 新聞・雑誌 特選古書 特定商取引に関する法律に基づく表示 店舗のご紹介 お問い合わせ

書籍詳細 [前のページへ戻る]



書名 : 神格化と特権に抗して
編著者 : 戴煌著横澤泰夫訳
出版社 : 中国書店
定価 : 3,200 円
出版年 : 2003/03 月

A5ソフトカバー553頁


  刊行以来反響、書評紹介続続!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
歴史から教訓学ぶぬ中国共産党を命懸けで告発

「歴史を学ばない日本」と日本人を批判する中国の政治家がいるが、そのような人物が歴史から真に学んでいるかは疑わしい。この本の著者は、歴史から学ばない中国共産党を痛烈に告発してやまない。世は桜の季節だが、戴煌著「神格化と特権に抗して」(原著「九死一生-我的『右派』歴程」を読むと、重い気分になる。
 回想はフルシチョフ秘密報告の衝撃から始まる。やがてポーランドとハンガリーの事件が伝わり、「私の思考は原爆のような爆発をみせた」(61頁)。57年6月、著者は彭真北京市委第1書記の報告に勇気づけられて外交学院で開かれた座談会で発言する。「一年来の鬱積した思いを洗いざらい話し」「最も危険な潜在的災いは、神格と特権」(81頁)と告発した。数日後,新華社社長呉冷西は、「戴煌がつまみ出された」と宣言し、『一夜の間に、新華社の至るところにさまざまに私を摘発し、罵る大字報が貼りだされた』(83頁)。57年8月7日新華社は「反党分子戴煌の一連の反党の原稿を摘発」というニュースを発信。58年3月18日、新華社構内の一室で「戴煌を総師とする反党右派小グループ」に対する党内処分が決定した。翌月から155円75銭の給料が停止され、毎月28円の生活費だけになった(108頁)。著者は北大荒に送られ、以後2年8ヵ月にわたって過酷な労働を強いられる。そこで死ぬものは死ぬが著者はかろうじて生き延びる。「右派が死ぬたびに、われがちに死者の警備につこうとした。これは一、二個の小さな窩窩頭(まんじゅう)の手に入れるためで、時には殴り合いの喧嘩もあった」「ドストエフスキーの名作『死の家の記録』にも、人間の精神がこのような急激に堕落する様子は書かれていなかった」(328頁)。60年秋、北京で全国農懇工作会議が開かれ、周恩来が北大荒各農場の状況を尋ねる。「北大荒には何人の右派が行ったのか、何人のレッテルがとれたか、まだ何人残っているか」。周恩来は指を折って計算し、尋ねた。「この少ない分はどこへ行ったのか」「死にました」「なぜ死んだのか」。報告された死因は「栄養不良」「浮腫」「腸梗塞」など。「厳しい飢餓の下でのきつい労働と労働災害は言及されなかった」(337頁)。著者は周恩来の「関心と関与」のおかげで、ようやく北京へ生還した。
 62年1月、有名な7千人大会が開かれる。著者は自己批判の形式で「神格化と特権」に反対する思想を抱いた経緯と「北京に戻ってからの若干の問題に対する見方」を書いた。この文章は62年11月「右派分子戴煌に関する資料」としての新華社党委員会弁公室の名で大量に印刷され、「再批判」の資料とされてしまった。この文章のゆえに改めて、「2年間の労働教養」処分を受け、その後監獄で14年間暮らす運命に陥る(379頁)。
 78年10月、中央組織部長胡耀邦の手で、右派分子の「訂正」が行なわれ、著者はようやく新華社に戻る。戴煌、李耐因、韓慶祥、路雲の「反党小集団」は名誉教授回復され、29歳から50歳までの21年間の悲劇は終わり、こう結ぶ。「多くの同志は粛清によって死に追いやった者は、いまだにそれを後悔していない。遺憾の意を表すころさえしていない」(520頁)。
 著者によれば、党は歴史を教訓としていない。歴史から教訓を学ばない中国の政治を命懸けで告発する著者の精神力に圧倒される。
  (矢吹晋・横浜市立大学名誉教授 Chinese Dragon 2003年 4月15日)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
           中国のタブーに触れる

明らかになりつるある実態 毛沢東時代から大きく前進した中国

 今年三月、毛沢東元秘書・李鋭の「毛沢東は、この党(国家)を指導するのは俺で
なければだめだ。俺の言うことを聞けという意識だった」という発言を中国の新聞が報じ、話題を呼んだ。同じ頃、中国共産党元老・李維漢の「あれだけ多くの人間を投獄した。毛主席の承諾なしでやれたとでも言うのか」という生前の談話も雑誌で公表された。戴煌著『神格化と特権にこうして-ある中国「右派」記者の半生』も中国におけるこうした潮流のなかに位置づけられる。
 同書の著者は中国国営通信社・新華社の元記者だ。この「告発本」が、「何人かの権勢を振るっている人物が、この本で中国で出版されることを喜ばない」(著者言)という圧力を受けながらも、中国国内で出版されたことは、人々が政府に対して異議申し立てを行ない始めたことを示している。そういえば、「新型肺炎(SARS)」をめぐる衛生当局の隠ぺい工作を米誌『タイム』に暴露したのは、北京三0一病院のベテラン医師で、それも蒋彦水という実名でだった。
 反右派闘争や文化大革命など毛沢東時代の凄惨な政治運動については、近年数多くの研究書が出版され、実態が明らかになりつつあるが、まだダブーが多い。とくに迫害された当事者の生活や心理状態をここまで克明に記したものは稀有である。
 たとえば、著者が毛沢東に疑問を感じるきっかけになったソ連の「スターリン批判報告」が新華社内部で通達されたとき、著者は「ソ連の深刻さにはるかに及ばないが、中国にも個人崇拝の現象があると感じた。まず、私は、毛主席に対する称賛が過大であると強く感じた」とある。その後、彼は毛沢東崇拝と党の特権化を非難する発言を行なったため、「右派」の烙印を押され、二十数年間にわたり強制労働と投獄生活を強いられることになる。
 平等社会の実現を約束した共産党が、50年代にすでに特権階級化していた実態について、著者はこう書き記している。「(1956年、上海で)私は病院に腫れ物の切開に行った。・・・・・病院の医師、医療設備は当時にあってはみな一流のものだった。首長や彼らの夫人たちが、ちょっと頭痛がし熱が出た、風邪をひいたと言っては、しょっちゅうここに来て1日も半日も入院するのも無理はない。しかし、この病院の近くにある普通の市立病院は、大勢の老若男女で混雑していた」。
 高級幹部用の商店や特設プールもあった。特別遊泳証を持った高級幹部は乗用車に乗って、別の入り口からさっそうと入場する。北京では秘密のダンスパーティー、映画会が開かれていた。高級幹部の家族は、高級乗用車を乗り回していた・・・・・・。著者は「こんなにもかけ離れた差別は、いったい我々がこうでなければならいと実現を目指して奮闘してきた理想の一つなのだろうか」と驚愕する。
 彼の故郷の村でも腐敗した役人がのさばり、「母屋を建てたが、屋根瓦はすべてよその家の屋根から調達したもので、工事の際には多くの人夫をただ働きさせた。彼の妻の父や弟も彼の権勢を笠に着て、罪の無い者に仕返しをし殴りつけた」という始末だった。村人たちは「毛主席は偉大だが、末端は真っ暗だ」「まったく国民党が姿を変えて復活しただけさ」とぼやくしか手立てはなかった。
 チェックなき絶対権力は、革命後の平等を約束しても、結局は特権化し腐敗するということだろう。こうした革命後の現実を目撃した著者は、「特権階級は確かに存在している」と異議を唱え、「反逆者」となったのでsる。
 戴氏は、後に名誉回復され、職場復帰し、定年退職を迎えたが、今でも精力的に活動している。
 チチハル市所有の工場経営者の腐敗を報じ、同市から名誉毀損で訴えられ、多額の賠償金を要求された。山西省の記者が運城地区の手抜き工事を報じ、当局から冤罪を課され時には、連名書簡で記者の家族への支援金を呼びかけた。また、海南省の強制売春の実態を暴いた記者が政府当局から脅かされた際にも、記者の妻に生活費を送った。彼の活動は、中国メディアで逐一報じられている。
 こうした活動が可能となり、タブーに触れた本書の出版が許されたということである。ただ、中国が毛沢東時代から大きく前進したということである。ただ、前述の李鋭発言を報じた新聞が停刊処分に追い込まれるなど、中国の現実は厳しい。だからこそ、なおさら本書が出版された意義は大きいと言えるだろう。(2003年5月16日 週間読書人 こうろぎ・いちろう氏=神田外語大学所助教授・現代中国論専攻)

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。  
反骨のジャーナリスト ・戴煌氏の回想録
  
  中国報道界は今  ほど遠い言論の自由

 共産党政権下の中国で迫害に屈せず報道の自由を求めて戦い続けてきた国営新華社通信の元記者、戴煌氏の回想録『神格化と特権に抗して』と、中国における報道の現状について同氏に聞いたインタビュー録『中国 報道と言論の自由』が中国書店から同時出版された。
 インタビューでは毛沢東への全面的な批判や、共産党独裁の否定、中国では認められない民営新聞発行の必要性に言及するなど、中国国内では発表できない内容も多く含まれる。1957年の反右派闘争から文化大革命に至る暗黒時代に中国報道界で何が起き、現在はどうなのか、そして今後動くのか考える上で貴重な資料となっている。
 戴煌は個人の神格化と党幹部の特権化に反対する発言のもとで「右派」のレッテルを貼られ、57年から21年間にわたって流刑や労働改造、監獄生活を送った。名誉回復後、新華社に復帰した今も言論と報道の自由を求めて発言を続けている。
 回想録では、飢えや過酷な労働によって、次々に仲間が死に、自身も何度も死にかけた迫害の日々が克明に綴られているだけでなく、当時の論説や資料などを引用しながら、報道の現場で何が起きたかを詳述している。 
 またインタビュー録では、前村長の腐敗を暴露した人間が、その報復で濡れ衣を着せられて銃殺刑になった最近の事例などをあげながら、報道の自由にはほど遠い現状を紹介。その原因は建国後の毛沢東の誤りと一党独裁体制にあるとし、人々に真に支持される社会主義国家実現のためには、民営新聞の実現も含めて報道と言論の自由を確立することが不可欠と説いている。
 ただ、国外で出版される本とはいえ、こうした発言をする人間の存在を許容する程度には中国の改革が進んだのも事実。中国では01年7月の江沢民発言による、企業経営者の共産党入党に道が開かれた。今後資本家党員が増えていけば、政治体制にも影響を与えることが予想される。
「予断は許さないが、戴煌氏の主張通り民営新聞が生まれ、共産党が社会民主主義政党になって一党独裁が崩れる方向に中国が進む可能性も十分ある」
 回想録の訳者で熊本学園大の横澤泰夫教授はそう見るのだが。
 (毎日新聞 2003年4月11日 文化欄    )


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
      革命に進んで参加した中国知識人の多くの運命,

 現在にも通じる中国の政治権力の本質を見て取れることができる1冊


                評者  (獨協大学)辻康吾
「アメリカの靴クリームは素敵だわ」と言ったばかりに「右派」にされた女性。ある中国人科学者が愛国心から「高給の誘いを捨てフランスから帰国した」と書いたばかりに外国崇拝の「右派」とされた記者。
 学生の百花斉放を支持する発言をし,後にその発言をタネに「右派」にされた男。外国映画の同時通訳を頼まれ正確に訳したゆえ資本主義を称える「右派」とされた者。
 
 共産党員の堕落への怒りから自宅で「共産党革命委員会」が必要だと鬱憤をはらしたのを妻に密告された筆者。
 「右派」を差し出せとの命令で開かれた会議で用足しに中座しているうちに「右派」にされてしまった善良な男。
 どうしても職場に「右派」に思われる人物がいないため,局長のオジに頼まれて「右派」になって先進分子の若者。

 そして右派改造のため送られた北大荒や,後の労働改造での筆者の事故,栄養失調などの苦難と,実質的に殺され,自殺していった無数の人々。何度も九死に一生を得た筆者は,建国までの革命の「栄光」と権力把握後の共産党の堕落の原因を書名通り「神格化と特権」にあったとする。それはかつて劉賓雁が「第二種忠誠」で,白樺が「苦恋」で描いた悲劇である。
 訳者が「あとがき」で「内容が余りにも悲惨な出来事の連続であるため,読むのに相当の根気がいるだろうという懸念からいったんは翻訳をみおくることにした」と述べているように,本書はかつての革命的理想,社会主義の夢,新中国建国の喜びとはなんのかかわりもないままに,建国以後の中国での不条理としか言いようのない圧政と抑圧をこれでもか,これでもかと並べ立てている。実は書評を引き受け精読すべき評者を何度も放り出しかけたというのが本書である。
 されだけに,まともな神経では読むのに耐えないような無数の出来事を忍耐強く読み通すなら,反右派闘争,その後の右派分子,つまり革命に進んで参加した中国知識人の多くの運命,あるいは現在にも通じる中国の政治権力の本質を見て取ることができる。
 今なお全容が明かにされたわけではないが,文革期の「内モンゴル人民党事件」,「広西422虐殺事件」,「北京大興県惨案」など,その犠牲者は十数万人にのぼるかも知れない当時の紅衛兵や造反派同士の武闘の死者は含まれていない。さらに中国の研究者の計算ですら「農村だけで4000万人以上」とされる大災害期の餓死者。中国の大地では血で血が洗われてきたし,その血のほとんどは権力に唯々諾々と従った無辜の人々の血であった。その数は,抗日戦,内戦期の犠牲者を遥かに上回っている。
 たしか80年代初期だったが,北京で丁玲と劉心武に会見した。自殺(他殺説もある)した老舎,虐殺された趙樹理らと同様,反右派闘争以来多くの苦難を経てきた文学者の一人である作家の丁玲は会見の最後で,「我々の中国は多難な国家,多難な民族」だと語った。「班主任」など文革後の新時期文学の旗手として登場したばかりの劉心武が,その場に同席しており,「だが今は自由だ,なんでも書ける」とはしゃいだ。だが丁玲は「初生犢不怕老虎」
(生れたばかりの子牛は虎を恐れない)と呟いただけだった。本書の筆者にように,とにもかくにも解放後の中国を生き延び,名誉を回復され,今や本書を国内で出版できるようにはなったものもいる。だが丁玲の言葉どおり,一時は『人民文学』の編集長にまでなった劉心武は,殺されたり,投獄されることこそなかったが,政治の曲折のなかで編集長を解任された。 
 数年前,大陸と台湾の中国人と同席する研究会があった。大陸の研究者が「歴史問題」を持ち出し,日本軍の残虐性を糾弾した。台湾人の研究者が「新中国建国後の国内の虐殺についてどう考えるのか」と質問すると,大陸の研究者は,これには答えず,声を荒げ,手を振り回し,真っ赤になって質問者を「裏切り者」と怒鳴りつけた。会場は学術討論から習慣的に政治的醜劇の場となった。本書の訳者は「あとがき」の中で次のように述べている。
 「戴煌は日本語版への序の中で『歴史を鑑』とすることの重要性を語っている。『歴史を鑑』という言葉は,中国の指導者が対日問題に関連して好んで使う言葉だが,戴煌氏は中国自身についてもこの言葉が重要であると指摘している。」,「日本の場合は隣国に対して侵略の手を伸ばしたことを『歴史の鑑』として反省すべきだと。ならば中国の場合はどうかと言えば,自国の人民に暴虐を振った歴史を反省すべきであるということである。」
 評者は中国研究者の一人として南京事件,ソ連の強制収容所,あるいはポルポトによる大量虐殺と同様,日本軍の虐殺も中国国内の抑圧事件も,日中間の国家問題や民族問題としてではなく,政治権力による人権抑圧事件と話し合ったこともある。だが日本人の一人として積極的にこの問題を」提起することには大きな躊躇を感じてきた。だが幸い中国人自身がこの問題を提起してくれた。文革期を筆頭に「新中国」における政治的暴虐を暴露する出版物は決して少なくないし,日本の侵略との関連で問題としているもの戴煌氏一人ではない。ネットの上でではあるが,「小国寡民」と名乗る『新世紀網』の常連の一人は「中国人は自分の近代史,抗戦史,および49年以降の政治運動と執政史のもっとも重要な部分のすべてについて,心を砕いて隠蔽と歪曲と改訂を加えている」としている。
 文革以降,中国近現代史の見直しがゆっくりと進んではいるし,その中で反右派闘争に関する論文,回想録,資料集も多い。だが81年のいわゆる『歴史決議』は反右派闘争について「まったく正しかったし,必要なことであった。だだ反右派闘争はひどく拡大化され,多数の知識分子,愛国人士や党内の幹部を間違って『右派分子』ときめつけ,悲しむべき結果をもららすことになった」としながらも,その正当性を主張し続けている。反右派闘争に対するこの公式評価は今も変わっていない。そして筆者が指摘するように文革後の再審査で5万2877人の右派分子の中で本当の右派分子とされたのはわずか96人であった。つまり99.8%が誤りであったことになる。それだ「正しく必要な闘争」であったのだろうか。中国近現代史についてこれに類する疑問は山積みとなっており,中国自身がそうした政治的虚飾を剥ぎ取り,歴史の真実に向き合わない限り,中国の近代化は「虚栄の市」に終わるであろうし,また日中間の摩擦の真の解決もないのではなかろうか。
中国研究月報 第57巻第10号(2003.10) 書評


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
       「直言」もとで受難21年

 中国の経済発展はめざましいが,これを社会の成熟につなげることは,それほど容易ではない。課題は,社会のソフトな資源を生かすことができるかどうかにあるといえる。
 自由な言論や非政府セクターの自由な結成・活動の保障が,社会資源の主要な内容であり同時に前提条件になるのだが,最近の新型肺炎(SARS)に対する当局の「情報隠し」は,それらの欠如を劇的な形で示してしまった。党を頂点にした強固な情報管理システムの危険性が露呈した一例だ。
 こうした報道を含む思想・表現の問題は,建国以来一貫して中国の政治社会の最も鋭敏なテーマであり続けてきた。本書は,自らの発言のため「右派」とされた国営新華社通信のベテラン記者による辛酸の人生の記録である。表現や報道の在りかたが問われている中で,今日的な意味をもっている。
 著者は,著名な非共産党系指導者や新聞人ら数十万の知識人が迫害された「反右派闘争」(1957年)の過程で極右分子とされたまず「監視労働」処分を受け,次いで「労働教養」処分に。文化大革命期を経て78年末に名誉回復するまで21年間,29歳から50歳まで,囚人同様の強制労働の日々を強いられた。
 本書は著者の受難史ではあるが,知識人の「集団流刑」の現実もリアルに記録されている。最初に送られたのは黒龍江省・北大荒。酷寒,重労働,飢え,虐待で多くの人が次々に死んでいくさまに暗たんとした思いに襲われる。「労働を通じて自己を改造し新たな人間に」という党政策の現実である。
 著者が右派とされたのは,全党の災いは「神格化と特権」にあるとの発言がもとになっている。党幹部が特権化して現実から遊離していることを憂えた直言だが,これが毛沢東と党への攻撃とされた。
 いま一つ、著者は党の報道事業を「悪らつに攻撃」したと断罪された。著者の主張はこうだった。「喜ばしいことだけを知らせ、悪いことは知らせない」「報道にそれ相応の独立性がない」- 。
 「右派」は過去となったが、しかしこの46年間、何が変わり、また変わっていないのかという思いにとらわれてくる。
 西日本新聞 2003年5月25日(日)読書欄書評 
  坂田完治(現代中国研究者)





中国書店ホーム 小社出版物のご案内 書籍検索 新聞・雑誌 冬期セール 特定商取引に関する法律に基づく表示 店舗のご紹介 お問い合わせ
Copyright(C) 2000 All Right Reserved By 中国書店 TM
〒812-0035 福岡市博多区中呉服町5-23  TEL 092-271-3767  FAX 092-272-2946