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『王安憶論』(松村志乃著)が「週刊読書人」と「図書新聞」に取り上げられました。   [ 2016/07/14 ]

「週刊読書人」2016年7月1日号 書評

評者:工藤貴正(愛知県立大学教授、中国近現代文学、日・中・台比較文学専攻)

◇精神世界の根源へ◇ 社会背景と体験を考慮に入れて読み解く

 王安憶は、若いころから中国共産党員として抗日文学に携わっていた著名な文学者・茹志鵑(1925-1998)を母に、1954年南京に生まれ、上海で成長する。いわばエリート共産党幹部の子弟である。そんな彼女が思い描いた理想的な共産主義という幻想は1989年の天安門事件によって終焉を迎える。この事件が本書で著者が王安憶の精神史の遍歴を分析し、解明する上での要衡のゲートへとつながっている。
 本書は、1980、90年代の王安憶の文学テクストを、その社会背景と筆者の体験を考慮に入れて、彼女の精神の歩みとして読み解いたものである。
 本書のテクスト・クリティックに扱われる主要作品は、「小鮑荘」(1985)、「おじさんの物語」(1990)、『紀実と虚構』(1993)、『長恨歌』(1995)、「ビルを愛して」(1996)、『富萍』(2000)である。 
 「小鮑荘」では、「ルーツ探し(尋根)文学」として社会的には高く評価されたが、農村を書くことは、王自身のルーツ(アイデンティティ)探索においては他者でしかないこと。
 89年「天安門」後に、書くことの葛藤を経て発表した「おじさんの物語」では、社会改革への貢献を義務づけられた「おじさん」に代表する旧世代の知識人作家の欺瞞と反発を描きながらも、「私」もすでに作家として「真実のものを虚偽の存在に変え、しばらくそこに佇み、虚偽の存在を再び別の真実に変える」生活を身につけていたとして、体制側に同化して「書くこと」への不信感を示すこと。
 『紀実と虚構』では、物語の展開に都合のよい「紀実」を探し出し、ねじ曲げた「家族神話」を構成する小説でも、自身の自伝的要素も強く反映させた成長物語が語った「紀実」(事実の記述)として描かれた小説でも、ともに「文学の権力」が潜んでおり、後者はそれが隠蔽されているにすぎないこと。
 『長恨歌』では、1940年代から80年代までの上海を生きた女性の典型として、主人公王琦瑶の一生が描かれる。王安憶の上海の原風景としての「弄堂」の生活描写であり、「生計」に支えられた「生活の美学」を描き出す一方、「老上海」ブームに警鐘を鳴らす悲惨な末期を導き出していること。
 「ビルを愛して」は、「現代化」に伴いグローバル化する中国・上海に生きる者が、自己アイデンティティを如何に確立するかという問題意識の下で、「西洋」を自己のアイデンティティに同化してしまった主人公、上海の女性芸術家・阿三を「罪」に陥れ、厳しく突き放していること。
 『富萍』では、上海人の憧れである旧フランス租界淮海路の「弄堂」の生活にではなく、従来の王安憶テクストにおいて不安要素を表す記号でしかなかった上海郊外の風景や生活が、豊かな実りを生み出す地として描かれ、主人公・富萍の自活し清貧に生活する生き様に、王安憶は上海のユートピアを描き出していること。
 以上、本書に示される読みである。
 王安憶は、「ルーツ探し」の念頭においたのは、「民族」や「伝統」や「中国人」のアイデンティティではなく、「自分の命のルーツとアイデンティティを探求すること」であったことが、彼女にとっての文学に描く精神世界の根源なのであろう。この中特に、『長恨歌』から『富萍』への解読は、王安憶の生活と精神の原型である「上海」を通して、作家としてのアイデンティティの遍歴があったことを確信できる分析である。本書は、筆者がついつい『長恨歌』のDVDと飯塚容・宮入いずみ訳『富萍』(勉誠出版)を買ってしまい、王安憶の経験した精神の葛藤を味わいたいと思わせるほどの一書に仕上がっている。

 ★まつむら・しの氏は日本学術振興会特別研究員。共訳に「現代中国文学短編選」など。
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「図書新聞」2016年7月16日号 書評

評者:濱田麻矢(現代中国語文学)

変化しつづける作家・王安憶
作品と同じ目線で真正面からぶつかり、吟味する姿勢に声援を送りたい

 待望の王安憶論が出版された。現代中国文芸に関心ある人ならば、同時代中国の読書界を牽引してきた重量級の作家として、あるいは解放軍作家・茹志鵑の娘として王安憶(1954~)を知っていることだろう。日本においても、複数の翻訳本が出版されているし、アンソロジーや文芸誌に掲載された中短編小説は相当な数にのぼる。王安憶は70年代末のデビューから現在に至るまで、一貫して文壇に大きな存在感を持ち続けてきた。
 本書は王安憶についての日本初の専著である。多作でもあり、作風を絶えず変化させても王安憶の全貌を一冊にまとめるのは難しい。本書は80年代から90年代に時代をしぼり、王安憶という一人の小説家がどのように自分の国、自分の職業、自分の故郷に向かい合ったのかに焦点を当てた。その結果、彼女の苦悩と葛藤を物語るテクストを選んで精読し、アイデンティティ模索の道筋を辿る瑞々しい評論となっている。テクストは時代順に検討され、第一部では1980年代、第二部では90年代前半、そして第三部では90年代後半が扱われている。以下、簡単に論旨を追ってみよう。
 第一章「王安憶と文学の「尋根(ルーツ探し)」」で扱われる80年代中期は、20世紀の中国文学が迎えた一つのピークであった。文革の傷痕がある程度癒えた時、共産党イデオロギーによって文学が支配される前の生命力を取り戻そうとする動きが現れた。その結果の一つが「尋根文学」である。王安憶にとっては、1983年の初渡米が自らの「中国人」としてのアイデンティティを確認する契機となり、その結果が世の尋根ブームと歩みを同じくして書かれた中編「小鮑荘」となった。しかし、上海育ちで、ほんの短期間しか農村を経験していなかった王安憶の作品には、農村を描くことの「ためらいや自信のなさがひどく正直に現れて」いたと著者は指摘する。農村は祖国中国の根ではあったかもしれないが、王安憶自身の根ではありえなかったということだろう。しかもまもなく、ルーツ探しなどの文学上の冒険がひとまず棚上げされてしまうような大事件が起こった。1989年の六四天安門事件である。文学の多様化を促進するエネルギーともなっていた民主化運動が夭逝してしまったことにより、中国の文学は急激な転換を迫られることになった。
 第二章「「私」の書く八〇年代」は、天安門事件の衝撃によって一年の休筆を余儀なくされていた王安憶が、その復帰に際して書き上げた中編「おじさんの物語」が議論の中心となる。「頼りにならない語り手」として機能する「私」が、自分より一世代上の知識人作家「おじさん」について語ろうと試行錯誤するというこの物語は、天安門事件以降の絶唱として中国内外から大きな注目を浴びた。松村氏はカリスマ作家であった「おじさん」が実は卑怯で粗野な小人物に過ぎなかったというストーリー以上に、語り手「私」と「おじさん」の距離に注目する。そこには、天安門以降の中国における「作家=知識人」像が新たな転換を強いられている現実に直面した「私」、すなわち王安憶自身の苦悩が浮かび上がる。
 作家とはもはや群衆をリードし啓蒙する知識人ではなくなったのか。この命題について、王安憶が小説ではなく論考(復旦大学での講義)の形で答えを出しているのを論及したのが第三章「「作家」から「小説家」へ」である。この章では、(特権的な知識人としての)「作家」ではなく、(ある職能としての)「小説家」であると自称する王安憶自身の態度が揺れていることが確認される。
 こうした彷徨の一つの区切りとなったのが、第四章「一九九〇年代初期の王安憶小説」で取り上げられる『紀実と虚構』である。この長編は「わたし」という語り手を複数用意した上で、前述の「おじさんの物語」のように揺らぐ語りの上に恣意的に積み上げられたファミリーヒストリー(偶数章)と、安定した語りによって紡がれる作家「わたし」の成長物語(奇数章)が交錯するという凝った作りになっているが、この実験は必ずしも成功しなかったようだ。現代中国で小説を書くことが、啓蒙者の仕事なのか、エンターテイナーの稼業なのか、王安憶自身、論考で述べたほどには割り切れていなかったのだろう。
 しかし第三部が扱う1990年代後期になると、王安憶の実験は終わりを告げ、彼女は安定した筆致で彼女自身の「根」である上海の描出に取り組むことになる。第五章「王安憶の「上海」」が取り上げる『長恨歌』は、長いトンネルを抜けた作家の画期的な長編となった。民国期から改革開放期までを生き抜いた王琦瑶というヒロインは上海の象徴そのものでもあり、本作を以て王安憶は彼女自身の「根」にたどり着いたのである。
 その後第六章「「西洋」の追求」においては、自らの「中国性」を資本に西洋人の男たちの気を引き付けようとする阿三の悲劇を描いた『ビルを愛して』が検討され、第七章「王安憶のユートピア」ではニューカマー労働者貧しいながらにも勤勉に働くことに安らぎを見出す家政婦出身の少女一代記『富萍』が論じられるが、いずれも王安憶の原点とも言える上海を描き出すものだ。
 王安憶はデビュー以来その作風を不断に変化させてきた。彼女自身の歩みが迷いに満ち、試行錯誤を繰り返したのと同じように、本書もまた王安憶の作品に沿って現代中国の抱える様々な問題にぶつかり、答えを求めて彷徨する。高みにたって批評を試みるのではなく、作品と同じ視線で真正面からぶつかり、呻吟する姿勢に声援を送りたくなる。
 王安憶だけでなく、80-90年代の中国文壇に興味がある方に薦めたい一冊である。





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