| ●書評 | 中国のタブーに触れる
明らかになりつつある実態 毛沢東時代から大きく前進した中国
興梠 一郎
今年3月、毛沢東元秘書・李鋭の「毛 沢東は、この党(国家)を指導するのは 俺でなければだめだ。俺の言うことを聞 けという意識だった」という発言を中国 の新聞が報じ、話題を呼んだ。同じ頃、 中国共産党元・李維漢の「あれだけ多く の人間を投獄した。毛主席の承諾なしで やれたとでも言うのか」という生前の談 話も雑誌で公表された。戴煌著『神格化 と特権に抗して-ある中国「右派」記者の 半生』も中国におけるこうした潮流の中 に位置付けられる。 同書の著者は中国国営通信社・新華社 の元記者だ。この「告発」本が、「何人か の権勢を振るっている人物が、この本が 中国で出版されることを喜ばない」(著 者言)という圧力を受けながらも、中国 国内で出版されたことは、人々が政府に 対して異議申し立てを行い始めたことを 示している。そういえば、「新型肺炎 (SARS)」をめぐる衛生当局の隠蔽 工作を米誌『タイム』に暴露したのは、 北京三〇一病院のベテラン医師で、それ も蒋彦永という実名でだった。 反右派闘争や文化大革命など毛沢東時 代の凄惨な政治運動については、近年数 多くの研究書が出版され、実態が明らか になりつつあるが、まだまだタブーが多 い。とくに迫害された当事者の生活や心 理状態をここまで克明に記したものは稀 有である。 たとえば、著者が毛沢東に疑問を感じ るきっかけになったソ連の「スターリン 批判報告」が新華社内部で通達されたと き、著者は「ソ連の深刻さにはるかに及 ばないが、中国にも個人崇拝の現象が過 大であると強く感じた」とある。その 後、彼は毛沢東崇拝と党の特権化を非難 する発言を行ったため、「右派」の烙印 を押され、二十数年間にわたり強制労働 と投獄生活を強いられることになる。 平等社会の実現を約束した共産党が、 50年代にすでに特権階級化していた実態 について、著者はこう書き記している。 「(1956年、上海で)私は病院に腫れ物 の石灰に行った。......病院の表門には 看板が掛かっていなかった。......病院 の医師、医療設備は当時にあってはみな 一流のものだった。首長や彼らの夫人た ちが、ちょっと頭痛がし熱が出た、風邪 をひいたと言っては、しょっちゅうここ に来て一日も半日も入院するのも無理は ない。しかし、この病院の近くにある普 通の市立病院は、大勢の老若男女で混雑 していた」。 高級幹部用の商店や特設プールもあっ た。特別遊泳証を持った高級幹部は乗用 車に乗って、別の入り口からさっそうと 入場する。北京では秘密のダンスパーテ ィー、映画会が開かれていた。高級幹部 の家族は、高級乗用車を乗り回していた ......。著者は「こんなにもかけ離れた 差別は、いったい我々がこうでなければ ならないと実現を目指して奮闘してきた 理想の一つなのだろうか」と驚愕する。 彼の故郷の村でも腐敗した役人がのさ ぼり、「母屋を建てたが、屋根瓦はすべ てよその家の屋根から調達したもので、 工事の際には多くの人夫をただ働きさせ た。彼の妻の父や弟も彼の権勢を笠に着 て、罪の無いものに仕返しをし殴りつけ た」という始末だった。村人たちは「毛 主席は偉大だが、末端は真っ暗だ」「ま ったく国民党が姿を変えて復活しただけ さ」とぼやくしか手立てはなかった。 チェックなき絶対権力は、革命後の 平等を約束しても、結局は特権化し腐敗 するということだろう。こうした革命後 の現実を目撃した著者は、「特権階級は 確かに存在している」と異議を唱え、 「反逆者」となったのである。 戴氏は、後に名誉回復され、職場復帰 し、定年退職を迎えたが、今でも精力的 に活動している。 チチハル氏所有の工場経営者の腐敗を 報じ、同市から名誉毀損で訴えられ、多 額の賠償金を要求された。山西省の記者 が運城地区の手抜き工事を報じ、当局か ら冤罪を課された時には、連名書簡で記 者の家族への支援金を呼びかけた。また、 海南省の強制売春の実態を暴いた記者が 政府当局から脅かされた際にも、記者の 妻に生活費を送った。彼の活動は、中国 メディアで逐一報じられている。 こうした活動が可能となり、タブーに 触れた本書の出版が許されたということ は、中国が毛沢東時代から大きく前進し たということである。ただ、前述の李鋭 発言を報じた新聞が停刊処分に追い込ま れるなど、中国の現実は厳しい。だから こそ、なおさら本書が出版された意義は 大きいと言えるだろう。(こうろぎ・い ちろう氏=神田外語大学助教授・現代 中国論専攻) ★ダイ・ホァンは元新華社軍事記者。 現在は冤罪事件の被害者の支援活動に従 事。「悪徳腐敗役人」との闘争を続けて いる。著者に「九死一生 我的‘右派’ 歴程」「胡耀邦与平反冤假錯案」など 多数。1928年生。
2003年5月16日『週刊読書人』より転載 |